宝田明さんは昭和ひとケタ世代。幼少時代を満州・ハルビンで過ごした。
「父が満鉄(南満州鉄道)の社員でしたから、立派な社宅に住んで、燃料も、食糧も、何一つ不自由のない恵まれた生活をしていました。あのころ、内地では『鬼畜米英』のスローガンを掲げていて、外国人とふれる機会はほとんどなかったと思いますが、ハルビンでは、『五族共和して大東亜共栄圏をつくるんだ』という協調ムードでしたから、身の回りに白系ロシア人や中国人、インド人、韓国人、日本人などがたくさんいて、子どものころからコスモポリタン(国際人)でした」。
しかし、戦争が激しくなるにつれ、そんなほのぼのとした日常にも、ありふれた家族の生活にも、少しづつ翳りが見えてきた。
「二人の兄は満州から兵隊に行き、もう一人の兄はソ連軍の強制使役に駆り出されました。ボクも、将来は兵隊になろうと思っていました。当時の男子は当たり前のように
“国の防波堤たらん! 日本の国の北の守りは我々が!”と思っていましたからね」。
こうして迎えた昭和20年8月。終戦と同時に宝田さんの生活は180度転換したのである。
「それまでは内地と比べて、ハルビンは平穏でしたけれども、8月9日に突然、ソ連の軍隊が日ソ不可侵条約を破って侵攻してきましてね。今まであった軍隊も警察機関も公的機関も学校も、すべて接収されました。そうした状況のなかで8月15日、ハルビンで玉音放送を聞いたんです」。
戦後のハルビンは混乱を極め、日本人は皆、路頭に迷ってしまった。お金もなく、食糧もない。子どもたちも町に出て働いた。
小学校5年生だった宝田さんも、ソ連兵の靴磨きをしたり、タバコを売ったりして、日銭を稼ぐ日々が始まった。
「戦争が終わっても、すぐ上の兄はソ連の強制使役で連れて行かれたまま、待てど暮らせど帰ってこなかった…。そのうち、ボクたちは引き揚げで日本に帰ってくることになったものですから、ハルビンから引き揚げの列車に乗って、長春や奉天などに停車するたびに
“先に帰っているよ”という張り紙を駅に貼りながら、後ろ髪を引かれる思いで日本に引き揚げてきたんです」。
こうして家族で日本に帰ってきたのは、終戦の翌年のことだった。
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