やぁ、お元気ですね 宝田明さん
No.16 宝田明さん
ゆめクラブ神奈川の機関誌『ゆめジャーナル』に連載しているコラムです。
各界の著名人が楽しく生きる秘けつを語ります。

 ■心はずっと コスモポリタン   
 宝田明さんは昭和ひとケタ世代。幼少時代を満州・ハルビンで過ごした。
 「父が満鉄(南満州鉄道)の社員でしたから、立派な社宅に住んで、燃料も、食糧も、何一つ不自由のない恵まれた生活をしていました。あのころ、内地では『鬼畜米英』のスローガンを掲げていて、外国人とふれる機会はほとんどなかったと思いますが、ハルビンでは、『五族共和して大東亜共栄圏をつくるんだ』という協調ムードでしたから、身の回りに白系ロシア人や中国人、インド人、韓国人、日本人などがたくさんいて、子どものころからコスモポリタン(国際人)でした」。

 しかし、戦争が激しくなるにつれ、そんなほのぼのとした日常にも、ありふれた家族の生活にも、少しづつ翳りが見えてきた。
 「二人の兄は満州から兵隊に行き、もう一人の兄はソ連軍の強制使役に駆り出されました。ボクも、将来は兵隊になろうと思っていました。当時の男子は当たり前のように “国の防波堤たらん! 日本の国の北の守りは我々が!”と思っていましたからね」。

 こうして迎えた昭和20年8月。終戦と同時に宝田さんの生活は180度転換したのである。
 「それまでは内地と比べて、ハルビンは平穏でしたけれども、8月9日に突然、ソ連の軍隊が日ソ不可侵条約を破って侵攻してきましてね。今まであった軍隊も警察機関も公的機関も学校も、すべて接収されました。そうした状況のなかで8月15日、ハルビンで玉音放送を聞いたんです」。

 戦後のハルビンは混乱を極め、日本人は皆、路頭に迷ってしまった。お金もなく、食糧もない。子どもたちも町に出て働いた。
 小学校5年生だった宝田さんも、ソ連兵の靴磨きをしたり、タバコを売ったりして、日銭を稼ぐ日々が始まった。
 「戦争が終わっても、すぐ上の兄はソ連の強制使役で連れて行かれたまま、待てど暮らせど帰ってこなかった…。そのうち、ボクたちは引き揚げで日本に帰ってくることになったものですから、ハルビンから引き揚げの列車に乗って、長春や奉天などに停車するたびに “先に帰っているよ”という張り紙を駅に貼りながら、後ろ髪を引かれる思いで日本に引き揚げてきたんです」。
 こうして家族で日本に帰ってきたのは、終戦の翌年のことだった。


 ■離ればなれの兄との 奇跡的な再会
 引き揚げからしばらくは、両親の田舎である新潟県村上市で暮らしたが、物資が手に入らず、生活には困窮していた。

 「母親が朝早く新発田に行って仕入れてきた新鮮な魚を、ボクも一緒になって家の近くで雪の上に並べて売っていましたよ。生きること、食べることに精一杯の状況で、学校へ行くどころじゃありませんでした」。

 ある日、そこに一人の男性が通りかかって道を尋ねられた。
 「まるで(レ・ミゼラブルの)ジャン・バルジャンのようなみすぼらしい身なりをした男が『役場はどこですか』と聞いたんですね。役場の場所を教えて、小一時間経ったら、また同じ男が戻ってきて『さきほどはありがとうございました』と言ったんです。そこでまじまじと顔を見たら、なんと、満州で生き別れた兄だったんですよ。もう、本当に驚きました。当時14歳だった兄は、新潟の本籍地の住所を頼りに、満州から一人で船に乗って博多に渡り、家族を捜しながら日本海側をずっと歩いて、歩いてきたところだったんですね」。

 こうして劇的な再会を果たした宝田さん一家。しかし、この時期の引き揚げによって、多くの日本人家族が離散したり、中国残留孤児を生み出してしまったことに、今でも心が痛むという。
 「ボクの家族は、父の仕事の関係で、中国の人たちとは密接につき合いがあったわけだし、小学校時代は授業で北京語も勉強していましたからね。ボクの精神構造の中には中国で育ったものがしっかりと組み込まれているんです」。


 ■モットーは 『我れ以外皆我が師』
 俳優として活躍するようになってからも、アジア、とくに中国への思い入れは人一倍強い。昭和30年代に香港映画三部作(「香港の夜」「香港の星」「ホノルル−東京−香港」)への出演が決まったときには、不思議な縁を感じたという。
 「日本は、文字も宗教も焼き物も、すべての文化が中国から伝来したものでしょう。何千年もの間に受けた影響を考えると、もっと交流を広げていきたいという気持ちは年々、強くなりますね。ボクは中国の共演者やスタッフとも“GOOD WILL”ですよ! すぐに仲良くなれるんです」。

 宝田さんは、今年72歳の“年男”である。俳優としてのキャリアもすでに半世紀を超えた。
 「こうなると、この仕事は自分の天職だとしか思えないですね」

 しかし、俳優という職業は、いろいろな役柄を演じなければならない。しかも、配役はある日、突然やって来るのだ。
 「オファーが来てから『その役柄を勉強したいから、一年間、時間をください』というわけにはいかないんですね。だからこそ、日ごろから広く・浅くでもいろんなものを見て、知って、自分の中に蓄えておくしかないんです」。

 衣装やメイクやセリフだけではとても演じきれるものではない。演技に深みが出るかどうかは、やはり人の見ていないところでの努力――とくに観察力――によるという。
 「最近は職業も多様化して、いろんな分野で人々が活躍しています。ですから、日常生活の中で、一つか二つ観察して、ちょっと自分の意識の中に入れて、参考にしたらいいんですよ。たとえば、お鮨屋さんに行ったら、職人さんの心意気やしゃべり方を見ておくとか、ちょっとしたことでいいんです。
 『我れ以外皆我が師』――こう思って生きていくことが大切なんですね。そうすれば、腹も立たないし、感謝の気持ちがわいてきます。
 こうしたことを心がけて、まだまだ与えられた人生を楽しんでいきたいですね」。




プロフィール
宝田 明さん(たからだ あきら)
 昭和9年、旧満州で生まれる。
 昭和29年、東宝第6期ニューフェイスとして「かくて自由の鐘は鳴る」でデビュー。昭和39年にはブロードウェイミュージカル「アニーよ銃をとれ」で芸術祭奨励賞を受賞。
 その後、「南太平洋」「風と共に去りぬ」「マイ・フェア・レディ」など、数々の作品で主演を務め、第6回紀伊國屋演劇賞、第10回ゴールデンアロー賞を受賞。
 「ゴジラ」「青い山脈」「放浪記」「ミンボーの女」など200本を超える映画のほか、NHK大河ドラマ「徳川慶喜」や連続テレビ小説「私の青空」などにも出演。
 映画、舞台、テレビ、司会、ナレーター、CMなど幅広く活躍中。


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